Starlight Ensign

計測への恐怖とアルカの残滓

まえがき

きっかけはこの論考で、これに触発されて考えた。論考の中の

しかし、私が人工言語界隈に不信感を抱き始めたのはその頃からであった。セレニズム時代の界隈人工言語が人工世界を基盤としてアプリオリ性の高い言語を作る傾向にあったこと自体に批判の目が向けられたことが始まりだった。そして、人工言語を計るための形式主義的なものさしが界隈を挙げて推されたことが当時のFafsにとっては容認できなくなっていった。
(中略)
そしてそのあとに出てきたポストセレニズム以降の人工言語知識人や悠里界隈の人間が形式主義的なものさしに加速主義的に拘泥しているように見え、特にそういったものさしで自分の言語が計られ、何らかの判断が行われたことはFafsに強い反感を抱かせた。何故なら、形式主義のものさしで全てが解明されてしまったら、リパライン語がリパライン語である理由がなくなってしまうのではないかと思ったからだ。反感はそのじつ恐怖であった。リパライン語のアイデンティティ消失への恐怖だった。

という部分に対して考えたことを纏めておいたほうが良いと思う。論考の中で、

これには私の人工言語界隈史の理解のようなものが強く影響している。どのような界隈史の理解が正しいのかという議論はここではしないことにする。なぜなら、「正しい界隈史」と他者性の人工言語論に繋がる「Fafs F. Sashimiの界隈史の理解」は必ず別ものであるからだ。

と但書がされていることから、上記リンクの論考を下記では Fafs史観 と置くことにする、下記の論考もまたざすろん史観に過ぎないということは了承して貰いたい。

言語学と人工言語論の違いについて

Fafs史観だけでなく、Twitterでのやり取りも含めて考えたことだが、言語学と人工言語論は、似ているようで位置づけに大きな差があると思う。言語学はあくまで現実の言語を分析するための計測のツールだが、人工言語論は計測のツールと創作のツールが入り混じっている。

Fafs史観でも挙げられているように、しばしば諍いが起こる原因として人工言語論が創作を縛るのではないかという恐怖がある。これは、計測と創作を混同しているがゆえに起こることで、人工言語創作者が混同すれば計測への恐怖を掻き立てられ、他者が混同すれば計測を元に創作の完成度を断じる過ちを犯す。具体的な例として、ある言語がもつ子音体型が、自然言語のそれとは大きく異なっているという事実があるとする。この時、計測の結果としては「ある言語がもつ子音体型が、自然言語のそれとは大きく異なっている」ということが分かる。これは「従って、あり得ない」という創作論を述べているものではないという点に注意が必要である。また、同時に「自然言語として考えるなら、自然ではない」という計測結果から作者が逃れることもできない。

これは非常に暴力的で強制的に思えるかもしれないが、この計測結果の前提となっているのはあくまで「この現実における、自然として考えるなら」という条件に過ぎない。従って、別世界や別の歴史をたどった世界の言語や、そもそも自然言語性を追求しない言語にとっては、何の制約にもならない。自然言語性を追求する言語にとっても、ある部分で妥協するという選択肢は作者に委ねられており、強制力はない。

測定が強制力を持つというFafs史観における形式主義への恐怖は、ざすろんとしてはアルカによって齎された価値観の残滓のように思う。アルカは「計測結果から最も自然言語に近いのはこのアルカであるべきであり、従って計測の結果として不自然であるという部分があるならば改定してでも撲滅しなければならない」という方向へ舵を切っていたように思う。単線的な「完成度」という指標を元に、自然言語的なものとして人工言語を捉えるなら、計測のツールはすなわち創作のツールにほかならず、計測結果は創作への強制的な制約と化す。この文脈においては計測とは審判であり、測定結果とは断罪である上に、判決を下すのは分析者なので創作者としての幅が無くなってしまう。アルカの場合は自ら積極的な形式主義的測定者を兼ねることよって、計測の実施も、計測結果の確認も、それによる創作の修正も、全てをアルカ内で完結することができた。自らの創作物が自然であることの証拠は度重なる計測によって積み上げてあり、対処すべき外部の測定者は稀にしか現れず、現れたとしても徹底的に叩き潰してしまうので大した問題ではなかった。

そういう意味では、Fafs史観においては

セレニズムはそういう文脈では人工言語の他者化を目指した運動ではあった。しかし、誤解なく意思伝達をするために、厳密に語彙や語法を定義をすることなどを含むセレニズム中心の他言語評価や自己のイデオロギーを暴力的に押し込めたことは偉業ともいえるはずのアルカをイデオロギー装置として貶めてしまった。

とされているが、ざすろん史観としてはむしろ逆で、アルカは人工言語の徹底的な自己完結性を目指した運動であったように思う。自己完結性を客観的に証明するために計測のツールを必要とし、単線的な完成度を高めるために計測のツールを創作のツールとして捻じ曲げて使用した。Fafs史観における「他者性」とは、暴力への挑戦であると述べられているので、この意味でもアルカは他者性を備えている様は思えない。むしろ、自己を不確かにする可能性があるあらゆる他者に対して暴力を差し向けることで自己を維持していたという側面を考えると、他者や客観からは最も縁遠いところにいたように思う。

計測者という他者を用意できなかったことで、計測結果と創作原理が同じ線上に乗ってしまった。これは不幸な出来事だったと思う。そして、いまも計測への恐怖という不幸は続いている。

あとがき

往々にして練度の低い計測者は形式によってのみ全てを断じようとする。逆に、練度の低い創作者は論考や批評の価値をそもそも認めず、1次創作のみが至高であると思いがちである。どちらの主張によるにせよ、相対することになるのは、熟慮が足りない者ばかりになるため、悪い側面が強調されて感じられる。ここで相手方に「形式主義者」や「創作至上主義者」のような適当なレッテルを貼ってしまえば、ただそれらの道具立てを手に暴れるだけの不良集団という認識以上には進めなくなってしまう。

実際のところ、Fafs史観で槍玉に挙げられている「形式主義者」も、自由で開かれた創作を志向しているという思いは共通だと思われる。アルカが最高の完成度を目指して邁進し、他の同じ方向性の言語が最高を僭称することを許さず撲滅して回り、自らの不完全性すらも許せずに再構築を強いていた時代と比べると、「形式主義者」はかなり穏当な勢力に過ぎない(とはいえ、一部に過激で筋の悪い論理建ての道具を持ち込む人々がいるのは否定しない)。あくまで道具立てが異なるだけで、取り立てて主義主張をもったイデオロギー集団ではない様に思う。ある集団に界隈や主義者というレッテルを貼ると、それ以上の粒度で個人に接する道が絶たれてしまう。

ざすろんとしては、計測のためのツールはいくらあっても困らないと考えている。現状把握のためのツールは多ければ多いほど良い。それらの計測結果は、互いに矛盾した結果を出力する可能性もあるが、そこをどう采配するかは作者の裁量に委ねられている。計測結果が一意に決まれば、確かに後からその場所を目指す創作を行うことによってデッドコピーを作る時間は短縮されるだろう。しかし、それらのデッドコピーには「なぜその計測結果が出力されるような設計をしたか」という哲学がない。理論による一般化を進めれば進めるほど、一般化できない作者の哲学という存在は際立つ。計測すら忌避するほどの高潔な創作者の創作物が、哲学のない創作物に負けるような創作であるはずがないのだから、どこまで徹底的な計測ツールを備えたところで創作の神秘のヴェールは無くならない。

創作的形式は自由な組み合わせが容認された存在であるべきだ。計測のツールはそれを擁護する。
8/29編集:元々の論考に対応させて描いた箇所だが、先方の改訂に伴い削除されたため、こちらも削除。

文章中の定義語について

すべて大文字で記すこととした。詳細はここに書いた。

イジェール語辞書をZpDIC Onlineへ移行した

タイトルの通り移行した。
ZpDICのOTM-JSONがそのまま解釈できるように自分の辞書システムを直せば良いんだけど面倒だし、変なところで自前主義発揮してる時間はないなと思った。

イジェール語更新(主要格の定義変更,終了相の廃止)

本日変更を行った点の覚書.変更の原因や目的についても記す.

主要格の定義変更

主要格の定義を「主格,対格,与格,属格の4つ」から「主格,対格の2つ」に変更した.この変更の目的は,所有属格による動名詞の過剰な多義化を防ぐことにある.

元々,イジェール語における動名詞は所有属格と記述属格の双方で修飾することが出来る.所有属格によって修飾された場合,修飾している名詞は動名詞に対して主要格として振る舞うことが想定される.記述属格によって修飾された場合,修飾している名詞は動名詞に対して主要格以外として振る舞う.例えば,arka「怒り」に対して,re「私」を用いて,res arka「私の怒り」と,arka ren「私の怒り」の二種類の修飾が可能である.前者はarkae「(主格が対格を)怒らせる」に対する主要格として振る舞うので,res arkaは「私が怒ること」「私を怒ること」の2つの意味を持つ.arka renは「私のために怒る」「私のことで怒る」等の解釈が可能である.この例では主要格が4つであろうと2つであろうと差はないが,取りうる格が多いafe「(主格が対格を奪格から与格に対して処格で出格を出発地点として向格を目的地として)乗り換えさせる」等の場合,res afeの意味は「私が乗り換えさせること」「私が乗り換えること」「私に乗り換えること」と過剰に多義化する.また,この例から明らかなように,属格が主要格に数えられている意味は無い.これを防ぐため,主要格は2つとなった.

終了相の廃止

以前おかゆと話していて,イジェール語は相体系が後方側に詳しすぎるという問題を認識していた.これは,状態遷移動詞を中心に組み立てられたイジェール語の体系に対して,その遷移後状態の終了点を相で表すのはおかしいという観点での話だ.例えば,「立ち上げる」という動詞を考えると,「立ち上げ終わる」=「立ち上がった状態の開始点」であり,この辺りまでが自然な相対系であろうという話である.イジェール語では,更に後方側に「立ち上げ終わった状態が終わる」=「元の状態に戻る点」が-itteの終了相として実装されていた.

私がこの相をしばらく廃止しなかったのは,-itteraの完結相では,いつの間にか状態が元に戻っていることが前提となっていて,そこに違和感を覚えたからだった.終了点を明示する方法がないのに,終了してある状態を表す方法があるのは,対応が取れていないと感じたのだ.しかし,これは状態遷移の方向をひっくり返す接頭辞,am-を厳密化したことにより概ね解決した.通常の状態遷移動詞-eが0→1を志向する時,それを元に作られたam-eは1→0を志向する.こうしておけば,従来-itteで示されていた終了点は,am-etで表現可能である.

以前の相体系にはもう一つ問題が有り,日本語や英語における過去時制が,-itteに対応するのか-itteraに対応するのかが明確ではなかった.終わった点を表す場合は-itte,終わった後の領域を表す場合は-itteraとしていたが,そもそも時制がないので,終わった直後の点とその後の領域を指定できるマーカーはなかった.つまり,時間マーカーがないのに,時間によって-itteと-itteraを使い分けようとしていたわけで,矛盾した体系だった.この問題も,全て-itteraに統一することで解決した.完結相本来の「物事内部の局面を無視して,外部から動作全体が完結済みであることを示す」という意味と照らしあわせても,こちらの体系のほうが整然としていて運用しやすい.

以上の理由により,-itteの終了相は廃用となった.

文法-句法-パラメータシステム

おかゆとSkypeしながら更に考えたシステム.背景から合わせてメモしておく.結構大きく変わった.特に大きな変更点は,句法と文法という二重構造に変化したこと.

本システムの目的

本手法は

  1. 必須性によらずに文の表しうる概念リストに言及するため
  2. 句レベルで生起する現象と文レベルで生起する現象を分けて言及するため

に考案された.

マーカーシステムの概要

本手法では,マーカーとパラメーターというふたつの概念を導入することによって,概念と表層の分離を試みた.また,句法と文法という二重構造を用いることで,語彙レベルから句レベルへのパラメータ収集規則と,パラメータ同士のやりとりによる一致現象を分けて記載する.

まず,句法について説明する.句はパラメーターを持ち,初期値は未定義である.マーカーは句が表しうる意味範疇のうちのひとつに対応しており,特定のパラメーターを持つ.また,マーカーはその標示が必須である必須マーカー,他のマーカーと同じパラメータを持つか下位のパラメータを持つ場合のみ許可される従属マーカー,それ以外の非必須マーカーに分類できる.句中にマーカーを置くことで,マーカーが持つパラメーターを句に代入することができる.ここで「句」とは,「必須マーカーを中心として構成された単語群」のことを指す.

例えば,英語においては時間マーカーは必須マーカーである.そのマーカー:パラメーターリストを下記に示す.

  • [マーカー:パラメーター]
  • [動詞の原型:現在]
  • [will+動詞の原形:未来]
  • [動詞の過去形:過去]
  • [had+動詞の現在完了形:大過去]

また,従属マーカーとしてtwo days ago や tommorow といった[時間を表す副詞(節)]を取ることが出来る.これらの要素は動詞句を形成する.

次に,文法について説明する.文法は,句法レベルで収集された「句のパラメータ」を,「文のパラメータ」にどのように反映させるかを表す.また,句同士のパラメータの授受についても規定する.

例えば,英語の時間についての上記の例を引き継ぐと,文法は次のように書ける.

  • {文の時間パラメータ←動詞句}
  • {従属節の時間パラメータ←文}

ふたつ目の規則で,従属節の時制の一致が扱われている.

このシステムにはいくつかのメリットがある.

  1. 標示が必須か否かに概念が左右されない
  2. 他の言語におけるマーカー形態に左右されない
  3. マーカーが表す概念を無限に拡張可能である
  4. 文レベルの現象と句レベルの現象を分けて記載可能である

1.標示が必須か否かに概念が左右されない

前述の通り,文法範疇はその標示が必須か否かによって区別される.本手法では,全てのマーカーが必須というわけではないため,非必須要素についても同列に扱うことができる.「英語ではテンスで表される時間概念って,中国語ではどう表すの?文法範疇ではないことは知ってるんだけど,時間そのものは表せるでしょ?」という質問を「中国語の時間マーカーってどうなってるの?」と単純に尋ねることが出来るようになる.テンスやアスペクトと言った用語に含まれる強制性のニュアンスを除去して,時間や局面の概念そのものへの言及を容易にすることができる.

2.他の言語におけるマーカー形態に左右されない

ある言語においてマーカーが副詞で標示されている場合に,自言語では屈折で標示されているとしても,マーカーの表示方法の如何とマーカーが表す概念とは分離しているため,そのことで扱いを変える必要はない.このことは,例えば時間概念をどの程度細分化して表現し得るかを考える際に,どの標示形態についての話なのか(活用なのか,接辞なのか,副詞なのか等)で混乱をきたすことがなく便利である.

3.マーカーが表す概念を無限に拡張可能である

例えば対象がヘビ的であるか否かを区別する「ヘビ性マーカー」を用意することができる.任意の概念Xに対して,「概念Xのマーカー」を考えることが出来るため,拡張性に優れる.

4.文レベルの現象と句レベルの現象を分けて記載可能である

一致現象は文レベルの現象であり,それぞれの句の規則として列挙すると猥雑である.本手法では,句レベルの規則と文レベルの規則は分離しているため,一部の規則について見直しを図っても,他の部分には影響を与えない.