Starlight Ensign

十兵衛ちゃんの感想

久しぶりに見返した。もともと時代劇が好きであることもあり、かなり好きな作品だがちゃんと感想を書いたことが無いので、描いておこうと思う。

どんな話?

柳生十兵衛のふざけた遺言に従って、突如二代目柳生十兵衛を襲名した十兵衛ちゃんこと菜ノ花自由が、300年前の因縁により襲い掛かる竜乗寺一門を返り討ちにしていく話。

この話は変身魔法(?)少女モノであると同時に時代劇である。変身して刀を抜けば必ず勝つので、アクション部分は(映像的には見栄えの中心ではあっても)話の中心ではない。この話に通底しているテーマは、思春期と親離れ・子離れであると思う。

ストーリーの流れについて

1話から9話にかけて、自由は一貫して柳生十兵衛として振る舞うことを拒否し続ける。家族を「私は菜ノ花自由だけで精いっぱいなの(3話)」「もう私、菜ノ花自由なので、ごめんなさい(9話)」「私は、私のために生きているんだから。私は、私だけで精いっぱいだから(9話)」の様に、かなり念を押して何度も主張され、自分たちのことだけを考えて生きようという父の意思と自由の意思は一致している。天真爛漫さが強調されているのでわかりにくいが、主人公の性質は天真爛漫かつ自己中心的であると言え、わがままで可愛らしい子供である。

自由は戦いから逃げ続け、正面から使命に向き合うことはしない。父が危険にさらされた(1話)、刀を突き付けられて(2話)、友人が切られた(3話)、友人を切ると宣言された・先輩に頼まれて(4話)、父を人質に取られた(5話)など、特に前半は自分の意思で戦うことは無い。

これが崩れ始めるのは一貫して自由のためを思って自分が嫌われてでも行動しようとする先輩、四郎の姿勢に影響を受けてである。それも、数話に渡ってようやく理解する。四郎は6話で葛藤しながらも自由に訓練をつけるため果し状を渡す。この行為の真意が自由には理解できず、苦しむ。「彼女には僕の気持ちはわからないだろう、だがそれで良い(9話)」という言付けでようやく他者のために行動するということを理解し、即座に敵にわざとつかまって本拠地に乗り込むという他者のための行動を実施する。他者を怨念から解放するために、10話で初めて自分の意思で変身する。11話で父の「自由だけで居ろ」という呼びかけを無視して使命のために飛び出して、12話では使命のために戻れないと宣言する。

最終話となる13話では、十兵衛vs太鼓太夫という構図に見えて、実際には娘と父の、子供と大人の、私的な子供の姿と使命と怨念の大人の姿の戦いが重ねあわされている。父と使命の二つを同時に敵に回して、しかも父が勝つことで使命から解き放たれるという結末には納得できるが、大人として成長する話に見せかけて、結局は子供としての日常を取り戻す話になっているのでその点は思春期を題材とした変身ものとしては惜しいかもしれない。

テーマについて

大人とは、使命や仕事として、他者からの要請に従って他者のために生きるものである。子供とは、自分のために生きるものである。自由は変身すると大人の姿になり、その間は二代目柳生十兵衛としての使命に生きることになる。使命を帯びて戦うことで、本人は傷つき苦しむ。これは、決して変身ヒロインでなくても普通に仕事をしていれば大人なら誰でも経験することのメタファーであって、他者に負わされた期待が重責になるというのは良くあることだ。こう理解すると、父である菜の「自分たちのことだけを考えて生きよう」という思いは、子としての自由を守る決意であると同時に、いつか打ち破るべき子供としての呪縛になる。

このことは、8話から11話にかけてはっきり示されている。かつて仕事を重視したあまり家族を蔑ろにしてしまったことで、菜と自由の関係は一度壊れる(8話)。この反省から、菜は自由のことを第一に考えるようになる。おそらく泊まり込みで何日も帰っていなかった状態(8話で母、真琴の処方箋が大量にある描写から)から、現在の在宅スタイルに変化したのもこれが一因だろう。このことを通して自由も父を許し、親子関係は修復される。

ここから親子離れの話を描くと思いきや、描かなかった。親子愛の話であって成長物語ではなかったわけだ。強い大人としての自立を描こうとすると父親が代わりに死ぬ、遠くへ去る、などの結末が必要になるので致し方ないかもしれない。2で本格的に親離れを描いても良かったと思うが、残念ながら1とテーマが似通っているので1を超えるものにはならなかったように思う。アクション部分の比重が増したことで、そちらが物足りなかった人には2の方が評価が高いかもしれない。

話の構造としては無駄が無く非常に美しいので好きな話だが、父から見た理想の娘像という感じもする。結局、13話で父は300年前の怨念(に仮託された大人の世界)から娘を取り戻すことに成功し、使命を運んできた鯉之助も居なくなったので、自由は父の知らない大人の女性にはならず、娘として帰還してしまった。

細かい部分

変身シーンのBGMのイントロが、変身シーンからではなく変身を決意した段階から流れ始めるのが好き。結構珍しい気がする。

イジェール語日本語辞典 販売開始

本日より、イジェール語の紙の辞書を販売します!

オンライン版の辞書を基にしているため、内容はオンラインの辞書同等です。本書の売りは、ただオンラインの辞書をテキストデータとして出力したものではなく、小口や逆引き索引の追加といった、辞書として実用に堪えるものとしたことにあります。

技術的な話をすると、本書はVivliostyleを活用したcss組版を用いて作成しています。辞書のjsonファイルを元に特定の構造を持ったhtmlを出力する機能と巻末索引を出力する機能を持ったプリプロセッサを自作し、巻末索引に対してはmechabによるフリガナ付与を基に日本語辞書順にソートした上で、Vivliostyleによるページ番号付与処理にかけています。

人工言語の辞書はオンラインが主流となってきたこともあり、紙の辞書は近年あまり出版されていないように見受けられます。体裁まで整えるとなかなか大変ですが、それに見合った充実は得られると思います。

気になった方は、是非手にとって見てください!

繰り返し表現

英語をはじめとした西洋語では、同語反復を避ける傾向が強いが、日本語ではそうではない。ここでは、イジェール語の同語反復に対する姿勢を説明する。

同語とは

ここで言う同語とは、文章中に現れる同じ響きを持った語、または語の構成要素とする。

イジェール語における同語の出現傾向

イジェール語は少ない形態素を基に、派生語や複合語を形成することで新語を作る傾向が強い。従って、どうしても文中に同一形態の要素が登場することが多くなる。

例えば、”Fodvanzrunou fode.”「設定項目を設定する。」の様な文章が生成されやすい。Fodvanzrnoは”Fode”「設定する」と”Vanzruno”「表」を基に形成された複合語で、オプション設定のことを指している。オプションを設定することは当然Fodeで表すため、このような語形成が行われている場合は同語が反復しやすくなる。このような場合は、文脈から十分推測可能であると思われる場合は複合語の構成要素が省略されがちである。すなわち、”Vanzrunou fode.”「項目を設定する。」の形になりやすい。なお、口頭よりも文書の場合の方がより同語反復は避けられやすい。これは、文章では文脈を読み返すことが可能であることによる。

複数の文にまたがる同語反復の場合

前述の文は単文の場合の傾向であるが、複数の文が連続する文章の場合の傾向を考える。

複数の文で構成される場合、例えば日本語では「オプションを設定する。設定されたオプションはすぐに有効化されます。」の様な言い方ができる。この場合に、2文目の「オプション」を「それ」と言い換えることは無い。「私の父は自分の車で私を迎えに来た。その車は昨年買った新車だ。」の場合、「その車」を「それ」と表現することは少ない。走れメロスを参照すると、「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。」から文章が続き、メロスのことは常に「メロス」と表現され、言い換えられることは無い。

日本語において、「太郎と太郎の父は、太郎の家で食事をした。」は不自然な文ではない。これを単純に人称代名詞に置き換えて「太郎と彼の父は、彼の家で食事をした。」とすると、彼が誰のことだかわかりにくくなる。
「私の父は自分の車で私を迎えに来た。」も日本語においては不自然な文ではない。「私の父は彼の車で私を迎えに来た。」も不可ではないが、一般的には自分の父親のことを「彼」では表さない傾向がある。イジェール語においては”Res cokef s’as vardu reu iduaet.”「私の父は彼の車で私を迎えに来た。」は不自然ではない。

イジェール語の場合、固有名詞であっても誤解の恐れが無い場合は代名詞に置き換えられる。イジェール語には冠詞が無いため、英語のTheの様に複数の表現を単一の物であると示唆するマーカーが無い。また、文法的性による動詞の活用もないため、動詞の語形から推測することも難しい。このため、冠詞を有する西洋語と比較すると、同語が反復される機会には寛容である。

強調のための同語反復

上記の傾向を持ったうえで、強調のためにあえて同語を反復させることがある。

“Res cokef s’as vardu reu iduaet. Suf s’af aririra koaet in.”「私の父は彼の車で迎えに来た。それは彼が昨年買ったものだ。」
“Res cokef ta pamef cokis vardu reu iduaet. Suf s’af arirara koaet in.”「私の父と母は父の車で迎えに来た。それは彼が昨年買ったものだ。」
この例は、1文目で父の車であることが確定しているため、2文目は父をs’aに置き換えている。イジェール語では男女の代名詞が同じであるため、代名詞に置き換えてしまうと父と母の区別はつかない。
“Vanzrunou fode kerin.”「オプションを設定してください。」
直訳すると「表を設定してください」となり意味不明であるが、話者は”fodvanzruno”「オプション設定」の要素省略であることを推測する。
“Aksermakef fom akseran.”「軍人とは戦う者のことだ。」
同語反復をあえて避けない例。”aksere”「戦う」という言葉に価値を持たせているため、初めの”aksermak”「軍人」も省略しない。
“S’af tun sones impir’atar. Tun impir’atarzonef bakin ain.”「彼はあの国の皇帝だ。あの帝国は非常に大きい。」
1文目では本当は「帝国の皇帝」と言いたいが、”impir’atarzones impir’atar”となるのは不格好であるため避けられる。2文目で帝国であることを添えることで文脈を補助している。

単語の定義と実際の使用の傾向

人工言語の辞書に単語を登録するとき、異なる概念には異なる名称をつけたくなる。例えばイジェール語では、四輪車はvarなので、トラックは運搬 cartige + 車 var でcartigvarになる。ここで、単一の複合語を形成するか、2単語のまま名詞句としがちであるかは、言語ごとの傾向であり、どちらを好むかは作者として定義することが多い。すなわち、cartigvarと1単語にするか、var cartiginの2単語で「トラック」とするか、あるいはcarvarやCVのように特定の省略法を使用して造語するかなどは、意識して定めがちである。

しかし、よく考えると日常生活で言語を使用するとき、私たちはそのような言葉の使い方はしていない。つまり、自分がトラック運転手だったとして、トラックのことを必ず「トラック」と呼称しているかというと、そうとは限らない。場合によっては単に「車」と呼称していることもあるはずである。他にも例は沢山ある。カレーとライスを合体させたものはカレーライスであるとしても、単にカレーと呼称してカレーライスのことを指している。The United States of Americaのことを単にThe Statesと呼称することもできる(冠詞の役割を考える必要があるので例としては適切ではないかもしれない)。

辞書的には、詳細に特定したい場合にどのように呼称するかを登録するとしても、実際の使用局面でどのような言い回しが好まれるかは、辞書とは別に定めておいた方が良いように思われる。「この言語では、互いに了解可能であると判断した場合は可能な限り複合語を短縮するよう、構成要素が脱落することは日常的に起こり得るが、フォーマルな場面においてはできる限り詳細に特定すべきであるという規範意識があるため、この限りではない」のように。実際の言語使用例が大量に存在すれば、そこから雰囲気を読み取ることができるため、自然言語においては明示の必要がないが、人工言語においては明示しておいた方が良いように思う。

造語の翻訳

ゲーム等における造語を翻訳する場合の傾向についてまとめる。統一された方法があるわけではないが、いくつかの実例とその理由を紹介する。

  1. Hyperium ハイぺリウム(Cosmoteerの物質)
    • Iebiakervansas ゲーム内において、この物質は超光速技術に用いられる物質であることと、原語のHyper-部分を加味して、Iebi-aker-vansas 超-光-物質とした。
  2. Nether ネザー(Minecraftのバイオーム)
    • Nezauerte 原語の音写にuerte 世界という主要部を付与した。ただし、他の単語の接頭辞となる場合はNeza-を用いる。
  3. Deep Dark ディープダーク(Minecraftのバイオーム)
    • Dafo-S’erave Minecraft内では「ディープダーク」のみでバイオームを指している。場所であることを明示する接尾辞の-veを付与して造語している。

3Dプリンターの造形メモ

最近勢いで3Dプリンターを買った。いくつか整形して気づいたところを書いておこうと思う。

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うつへの向き合い方

契機

自分は精神を病んでいた時期(うつ)があり、その時に自分の状態を分析した結果を、いまさらながらまとめておこうと思う。

相関関係の崩壊

うつになっていた時、自分の中で起こっていたことは因果関係の崩壊である。「エネルギーが不足してきたので空腹を感じる」「楽しいことをやったので気分が晴れる」「睡眠が必要なので眠くなる」などは、すべて意思と身体の状態間の相関関係が存在する。

うつの時、これらの連動は崩壊する。「何も食べていないのに腹が減ったように感じられない」「布団から起き上がれないが眠くない」「楽しいことをやりたいと思っても体が動かない」などの様に、精神と身体が分離したように感じられて、思ったとおりに身体は動かないし、身体の信号は精神に響かなくなる。

健常な人にとって、人間は「心と体」でできている。そして、この二つは連動しているものとされる。「一時的な体のだるさは一時的な気の迷いによるもの」であり、「明るい気持ちでいれば体も元気になるもの」であり、「体を動かせば心も晴れる」ものである。

しかし、心と体を結ぶもの(ここでは無意識と呼ぶ)が崩壊していると、上記は成り立たなくなる。身心の連動が崩壊している状態では、これらの連動は起きない。心身の持ち主がコントロール不可能な領域について、どうにかすることはできないため、このようなことを言われると無力感に苛まれることになる。

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