英語をはじめとした西洋語では、同語反復を避ける傾向が強いが、日本語ではそうではない。ここでは、イジェール語の同語反復に対する姿勢を説明する。
同語とは
ここで言う同語とは、文章中に現れる同じ響きを持った語、または語の構成要素とする。
イジェール語における同語の出現傾向
イジェール語は少ない形態素を基に、派生語や複合語を形成することで新語を作る傾向が強い。従って、どうしても文中に同一形態の要素が登場することが多くなる。
例えば、”Fodvanzrunou fode.”「設定項目を設定する。」の様な文章が生成されやすい。Fodvanzrnoは”Fode”「設定する」と”Vanzruno”「表」を基に形成された複合語で、オプション設定のことを指している。オプションを設定することは当然Fodeで表すため、このような語形成が行われている場合は同語が反復しやすくなる。このような場合は、文脈から十分推測可能であると思われる場合は複合語の構成要素が省略されがちである。すなわち、”Vanzrunou fode.”「項目を設定する。」の形になりやすい。なお、口頭よりも文書の場合の方がより同語反復は避けられやすい。これは、文章では文脈を読み返すことが可能であることによる。
複数の文にまたがる同語反復の場合
前述の文は単文の場合の傾向であるが、複数の文が連続する文章の場合の傾向を考える。
複数の文で構成される場合、例えば日本語では「オプションを設定する。設定されたオプションはすぐに有効化されます。」の様な言い方ができる。この場合に、2文目の「オプション」を「それ」と言い換えることは無い。「私の父は自分の車で私を迎えに来た。その車は昨年買った新車だ。」の場合、「その車」を「それ」と表現することは少ない。走れメロスを参照すると、「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。」から文章が続き、メロスのことは常に「メロス」と表現され、言い換えられることは無い。
日本語において、「太郎と太郎の父は、太郎の家で食事をした。」は不自然な文ではない。これを単純に人称代名詞に置き換えて「太郎と彼の父は、彼の家で食事をした。」とすると、彼が誰のことだかわかりにくくなる。
「私の父は自分の車で私を迎えに来た。」も日本語においては不自然な文ではない。「私の父は彼の車で私を迎えに来た。」も不可ではないが、一般的には自分の父親のことを「彼」では表さない傾向がある。イジェール語においては”Res cokef s’as vardu reu iduaet.”「私の父は彼の車で私を迎えに来た。」は不自然ではない。
イジェール語の場合、固有名詞であっても誤解の恐れが無い場合は代名詞に置き換えられる。イジェール語には冠詞が無いため、英語のTheの様に複数の表現を単一の物であると示唆するマーカーが無い。また、文法的性による動詞の活用もないため、動詞の語形から推測することも難しい。このため、冠詞を有する西洋語と比較すると、同語が反復される機会には寛容である。
強調のための同語反復
上記の傾向を持ったうえで、強調のためにあえて同語を反復させることがある。
例
“Res cokef s’as vardu reu iduaet. Suf s’af aririra koaet in.”「私の父は彼の車で迎えに来た。それは彼が昨年買ったものだ。」
“Res cokef ta pamef cokis vardu reu iduaet. Suf s’af arirara koaet in.”「私の父と母は父の車で迎えに来た。それは彼が昨年買ったものだ。」
この例は、1文目で父の車であることが確定しているため、2文目は父をs’aに置き換えている。イジェール語では男女の代名詞が同じであるため、代名詞に置き換えてしまうと父と母の区別はつかない。
“Vanzrunou fode kerin.”「オプションを設定してください。」
直訳すると「表を設定してください」となり意味不明であるが、話者は”fodvanzruno”「オプション設定」の要素省略であることを推測する。
“Aksermakef fom akseran.”「軍人とは戦う者のことだ。」
同語反復をあえて避けない例。”aksere”「戦う」という言葉に価値を持たせているため、初めの”aksermak”「軍人」も省略しない。
“S’af tun sones impir’atar. Tun impir’atarzonef bakin ain.”「彼はあの国の皇帝だ。あの帝国は非常に大きい。」
1文目では本当は「帝国の皇帝」と言いたいが、”impir’atarzones impir’atar”となるのは不格好であるため避けられる。2文目で帝国であることを添えることで文脈を補助している。
人工言語の辞書に単語を登録するとき、異なる概念には異なる名称をつけたくなる。例えばイジェール語では、四輪車はvarなので、トラックは運搬 cartige + 車 var でcartigvarになる。ここで、単一の複合語を形成するか、2単語のまま名詞句としがちであるかは、言語ごとの傾向であり、どちらを好むかは作者として定義することが多い。すなわち、cartigvarと1単語にするか、var cartiginの2単語で「トラック」とするか、あるいはcarvarやCVのように特定の省略法を使用して造語するかなどは、意識して定めがちである。
しかし、よく考えると日常生活で言語を使用するとき、私たちはそのような言葉の使い方はしていない。つまり、自分がトラック運転手だったとして、トラックのことを必ず「トラック」と呼称しているかというと、そうとは限らない。場合によっては単に「車」と呼称していることもあるはずである。他にも例は沢山ある。カレーとライスを合体させたものはカレーライスであるとしても、単にカレーと呼称してカレーライスのことを指している。The United States of Americaのことを単にThe Statesと呼称することもできる(冠詞の役割を考える必要があるので例としては適切ではないかもしれない)。
辞書的には、詳細に特定したい場合にどのように呼称するかを登録するとしても、実際の使用局面でどのような言い回しが好まれるかは、辞書とは別に定めておいた方が良いように思われる。「この言語では、互いに了解可能であると判断した場合は可能な限り複合語を短縮するよう、構成要素が脱落することは日常的に起こり得るが、フォーマルな場面においてはできる限り詳細に特定すべきであるという規範意識があるため、この限りではない」のように。実際の言語使用例が大量に存在すれば、そこから雰囲気を読み取ることができるため、自然言語においては明示の必要がないが、人工言語においては明示しておいた方が良いように思う。
ゲーム等における造語を翻訳する場合の傾向についてまとめる。統一された方法があるわけではないが、いくつかの実例とその理由を紹介する。
Hyperium ハイぺリウム(Cosmoteerの物質)
Iebiakervansas ゲーム内において、この物質は超光速技術に用いられる物質であることと、原語のHyper-部分を加味して、Iebi-aker-vansas 超-光-物質とした。
Nether ネザー(Minecraftのバイオーム)
Nezauerte 原語の音写にuerte 世界という主要部を付与した。ただし、他の単語の接頭辞となる場合はNeza-を用いる。
Deep Dark ディープダーク(Minecraftのバイオーム)
Dafo-S’erave Minecraft内では「ディープダーク」のみでバイオームを指している。場所であることを明示する接尾辞の-veを付与して造語している。
最近勢いで3Dプリンターを買った。いくつか整形して気づいたところを書いておこうと思う。
続きを読む
契機
自分は精神を病んでいた時期(うつ)があり、その時に自分の状態を分析した結果を、いまさらながらまとめておこうと思う。
相関関係の崩壊
うつになっていた時、自分の中で起こっていたことは因果関係の崩壊である。「エネルギーが不足してきたので空腹を感じる」「楽しいことをやったので気分が晴れる」「睡眠が必要なので眠くなる」などは、すべて意思と身体の状態間の相関関係が存在する。
うつの時、これらの連動は崩壊する。「何も食べていないのに腹が減ったように感じられない」「布団から起き上がれないが眠くない」「楽しいことをやりたいと思っても体が動かない」などの様に、精神と身体が分離したように感じられて、思ったとおりに身体は動かないし、身体の信号は精神に響かなくなる。
健常な人にとって、人間は「心と体」でできている。そして、この二つは連動しているものとされる。「一時的な体のだるさは一時的な気の迷いによるもの」であり、「明るい気持ちでいれば体も元気になるもの」であり、「体を動かせば心も晴れる」ものである。
しかし、心と体を結ぶもの(ここでは無意識と呼ぶ)が崩壊していると、上記は成り立たなくなる。身心の連動が崩壊している状態では、これらの連動は起きない。心身の持ち主がコントロール不可能な領域について、どうにかすることはできないため、このようなことを言われると無力感に苛まれることになる。
続きを読む
ヴァリーゼル帝国軍は深宇宙軍、星系軍、降下軍の3軍構成である。
帝国軍は米軍のようなタスクフォース構成を取らず、統合軍の考え方が薄い。このために、セクショナリズムによる弊害があると言われている。
深宇宙軍
遠征を主任務としたブルーウォーターネイビーである。戦力を遠隔地に速やかに投射することを目的とする。また、敵によって侵略された星系から敵を叩き出すことも任務に含まれる。このため、艦隊は独自にワープ可能となるように整備される。
最も歴史が深い軍であり、元はイジェール王国宇宙軍であった。現在の帝国軍の基礎となった軍である。従って、彼らは非常に誇り高く、降下軍とはそりが合わない面がある。軌道上での決戦こそが戦争の潮流を決めるのであり、その後の降下作戦は無粋で過剰であると考えている。
進深宇宙軍から現在の名称に改称された。
星系軍
星系防衛を主任務とし、沿岸警備隊や国境軍としての任務を兼ね備えた軍である。主に軌道圏内の防衛を主任務としており、各王国軍を大気圏内軍として隷下の軍とする。
軌道軍、星系防衛軍、星系軍と改称されている。
王国軍
各王国に帰属する大気圏内軍であり、帝国軍としては星系軍の一部とされている。編制及び指揮権は各王国に帰属しているが、帝国は王国に命令を下すことができるため、非常時は帝国の傘下として行動することとなる。基本的に大気圏を脱出する装備は持たず、大気圏内から軌道上を攻撃する兵器までを装備とする。
一般的に陸海空軍で構成されているが、国境が地上に存在しないため、装備は現代と比べると非常に貧弱である。
降下軍
最も歴史の浅い軍であり、軌道上から大気圏内へ降下して敵地を占領することが主任務の軍である。軌道上の敵軍排除は深宇宙軍の任務であるため、降下軍は降下母艦を基本とした編制となっている。装備と人員を迅速に降下させる能力と、軌道上からの対地上爆撃能力を持つかわりに、対艦戦闘能力は殆ど持たない。
もともと帝国軍は軌道上を封鎖すれば地上を制圧する必要はないという考えであったが、軌道封鎖ドクトリンに対抗するために、近年になって降下能力を増強し始めた。
降下先の惑星によって大気組成や重力が異なることから、装備する車両や航空機には特異な性能が求められる。単純の核装備の能力は現地の大気圏内軍に確実に劣るため、勇敢かつ知的な精鋭が集うエリートであるという自負がある。このため、同じく誇り高い深宇宙軍とはライバル関係にある。
用語
軌道封鎖ドクトリン
新陽が採用した作戦。装備を高いデブリ耐性及び掃海能力を持つ艦艇で固め、自らケスラーシンドロームを引き起こして軌道上に他国の軍艦が侵入できなくする作戦のこと。ほとんどの国家は宇宙から地上を殲滅できるだけの戦力を持っているため他国では注目されていなかった戦闘手法だが、侵略国が資源や領土が健全な状態で手に入ることを望む限り、有効な作戦であることが明らかとなった。
ある意味自らの領土を人質とすることで交渉力を上げる手法であり、他国はこれに対する対処を求められる形とはなったものの、追随する国はない。
何年か大阪に住んでいて、結構カルチャーショックがあった。コミュニケーションスタイルの違いが大きいと思ったので、ここにメモを残しておこうと思う。
私自身は関東人なので、大阪人の考え方は推測で書いている。
業務が絡んだシビアな場面などでは地域差による影響よりも利害関係の方が強い影響因子となるので、下記の話は成り立たなくなりがちだと思う。どうでも良い会話の時ほど下記の影響がある。
言及と言う行為の重さ
わかりきったことをわざわざ言うことに対しての印象に大きな差がある。大阪ではフリと捉えられる事が多いが、東京では誤魔化しとして捉えられる事が多い。
大阪における「いや〜、さっきまでここにあったんやけどな〜」と、東京における「さっきまではここにあったんですけどね~」は捉えられ方が著しく異なる。
大阪においては、言及するという行為は無標である。 わかりきったことを述べたとしても、それ自体に含みはない。従って、上記の発言に殊更に責任回避のニュアンスは生まれない。しかし、言及するという行為が有標である東京では、これをわざわざ口に出すという事は責任回避のニュアンスが強くなる。
勿論、大阪の場合でも責任回避のニュアンスである可能性はあるが、「勝手にどっか行ったみたいなこと言うなや」と返しても、直ちに小競り合いとみなされる可能性が低いので、一見揉めそうに見えても、意外と会話を重ねることが可能である。ネタ振りである可能性を常に持ち続けることにより「半分ネタ / 半分は本気」の姿勢を示し続けて交渉が可能になる。最終的に互いが満足できる結果になった場合は、事後的に「アレはフリだったよな!」という解釈を付け加えることができる。
東京では言及するという行為自体が有標で重い ので、上記の発言は責任回避のために卑しいことを言っているという印象になる。そこに対して「勝手にどこかに行ったみたいなことを言わないでください」と追及すると、敵対的ニュアンスを前面に押し出すことになり、即交渉が決裂してコミュニケーションが終了する可能性が高い。周囲の人間も「確かに責任回避的でどうかと思うけど、わざわざそんなに言ってまで批難するものか?どういう神経しているんだ」となりがちなので、基本的に嫌味やフリに遭遇した場合は、笑ってごまかしておくか、キレて戦うかの2択になりがちである。
まとめると、東京ではフリの文化が無いので解釈の一意性を求める傾向にあり、大阪では可能な「どちらともとれる言葉の意味を、互いにとって妥協可能な解釈に確定させていく作業」は成り立たず、曖昧な表現が出るたびに、確認するか誤魔化しておくかの二択に押し込まれる。
この価値観においては、解釈の一意性が成り立つ場合というのは議論が発生し得ない場合なので、コミュニケーションが存在しない状態こそが最高の状態ということになる。
ありがちな失敗パターン
東京の人が大阪に行ったときにありがちな失敗は「明らかにツッコミ待ちな状況が発生したのに、何も言わない」だろう。
大阪の人が東京に行ったときにありがちな失敗は「ツッコミを期待して発言したが誰にも拾われず、すべる」だろう。実のところ、面白くないという点以上に、不適切な発言をする信用できないやつとして評価を下げるリスクが大きいことの方が問題かもしれない。
対処法
東京の人が大阪に行ったときは、とにかくコミュニケーションを取り続けることを諦めないことが重要である。ツッコミできなかったときは、素直にその旨自体をネタにした方が良い。「オチないんかい」などの発言は強制的に第三者がオチをつけて完全に失敗することを回避してくれているので、その発言者に対して攻撃的な態度を取らない方が良い。すべっても何も言われなくなった場合は、敵対的ではなくなったのではなく、完全に信頼を失ってどうでも良くなった場合なので、そこを目指してはいけない。
大阪の人が東京に行ったときは、下手に東京弁に翻訳して喋らない方が良いと思う。聞く側には大阪弁で話されている限り、「大阪のコミュニケーションスタイルを採用しており、東京のスタイルとは異なる」というフィルタがかかる。これを利用しない手はない。東京人ならわかると思うが「ちゃうねん」は問題なく受け入れられても、「それは違いますよ」と言われると、かなり攻撃的に感じるので、そのままにしておいた方が良い。東京人がツッコミを入れないのは面白くはないかもしれないが、敵対心の現れではないので、追及の仕方は注意が必要。