Starlight Ensign

単語の定義と実際の使用の傾向

人工言語の辞書に単語を登録するとき、異なる概念には異なる名称をつけたくなる。例えばイジェール語では、四輪車はvarなので、トラックは運搬 cartige + 車 var でcartigvarになる。ここで、単一の複合語を形成するか、2単語のまま名詞句としがちであるかは、言語ごとの傾向であり、どちらを好むかは作者として定義することが多い。すなわち、cartigvarと1単語にするか、var cartiginの2単語で「トラック」とするか、あるいはcarvarやCVのように特定の省略法を使用して造語するかなどは、意識して定めがちである。

しかし、よく考えると日常生活で言語を使用するとき、私たちはそのような言葉の使い方はしていない。つまり、自分がトラック運転手だったとして、トラックのことを必ず「トラック」と呼称しているかというと、そうとは限らない。場合によっては単に「車」と呼称していることもあるはずである。他にも例は沢山ある。カレーとライスを合体させたものはカレーライスであるとしても、単にカレーと呼称してカレーライスのことを指している。The United States of Americaのことを単にThe Statesと呼称することもできる(冠詞の役割を考える必要があるので例としては適切ではないかもしれない)。

辞書的には、詳細に特定したい場合にどのように呼称するかを登録するとしても、実際の使用局面でどのような言い回しが好まれるかは、辞書とは別に定めておいた方が良いように思われる。「この言語では、互いに了解可能であると判断した場合は可能な限り複合語を短縮するよう、構成要素が脱落することは日常的に起こり得るが、フォーマルな場面においてはできる限り詳細に特定すべきであるという規範意識があるため、この限りではない」のように。実際の言語使用例が大量に存在すれば、そこから雰囲気を読み取ることができるため、自然言語においては明示の必要がないが、人工言語においては明示しておいた方が良いように思う。

文法の変更について

イジェール語の文法を久々に改定することにした。契機は二つあり、ひとつは属格の意味があいまいであること、もうひとつは関係節の構造にしっくり来ていなかったことがある。

イジェール語には二つの属格があるが、特に記述属格については意味が曖昧であった。記述属格は名詞の記述詞形と同じ形となるが、記述詞はある状態に関連するということを意味する単語であるため、意味はかなりあいまいになる。例えば dirin|赤い、akserin|戦わされる は一般的な記述詞だが、これらはそれぞれ dirin|赤の、akserin|戦いの といった名詞の属格形と同形である。このため、s’o dirin|赤い靴、def dirin|赤の広場、fom akserin|戦わされる人、zik akserin|戦いの時 などがそれぞれ属格と記述詞のどちらを用いているのかは文脈によって判断されることになる。このことは、 “fom akserin” が「戦いの人」と「戦わされる人」の区別が(形態上は)つかなくなることを意味する。akserin が akser に対してどのような関係であるのかは、機械的には定まらないということである。

以上の分析からすると、そもそも格として記述属格というものを認める必要はなく、これは記述詞派生接語であると見た方が良いように思う。日本語の「の」との対比で所有属格と記述属格を定めていたが、イジェール語における属格は所有属格のみで、所謂連体修飾的な関係は全て記述詞で行うこととする。

ここまでの変更は、単に属格と記述詞の区分けの変更であって、構文上は大きな変更ではない。これを節や句による修飾に拡張すると、現行の文法から大きく変わる部分が現れる。

関係節:名詞節の記述詞形

従来、関係節として説明されていた構文は、名詞節の記述詞形として解釈されることとなる。関係代名詞だったものは、今後は名詞節に対して先行詞の格関係を表示するマーカーという省略可能な要素として扱われる。

従来の説明では、”zik zera 文 ra” が標準的な「~した時」を指す表現だった。ここで、”ze 文” で「~すること」という名詞句を生成できることを考えると、”zik 記述詞” 相当の表現として、名詞句の記述詞形として “zik ze 文 n” でも成立することになる。

Ref zik ze ref bei dore n u sevandore uvan. |私は子供の時の事をよく思い出す。
Ref zik zera ref bei dore n u sevandore uvan. |私は子供だった時の事をよく思い出す。
Ref zik ref bei dore n sevandore uvan. |私は私が子供の時をよく思い出す。
Ref zik bein u sevandore uvan. |私は子供の時をよく思い出す。

3つ目の例は、今回の改定で可能になった表現である。文である “ref bei dore”は後接した “n” によって”ref bei dore n”という名詞節の記述詞形となっている。”zik” の名詞節内での格関係を明示したい場合にのみ、”zera” を標示すれば良い。

「私は子供だ」と「時」の何らかの関係が記述詞形とすることによって結び付けられており、ここでは文脈から最も妥当な関係が選択されていると考えることができる。このことは、単純に記述詞派生として bei「子供」と zik「時」を接続させても非文とならない……時が子供っぽい、時が子持ちである、時が子供の所有物である、などの可能性がある中から、私が子供であったその時、という意味が選択されるのは文脈による作用である……ことからも妥当であると言える。

名詞節:名詞節の名詞形

「~すること」のような名詞節を名詞として使用する場合は従来通り “ze” から始まる節とする。また、”ze” は名詞節だけでなく名詞句を生成することにも使うよう、意味を拡張する。

Ref ze Arhemarara mirsomittera u sevandoretra. |私はアルヘマーラに住んでいたことを思い出した。
Kun varef ze cokef ardira koaetra. | その車は父が昨日買ったものだ。
Ze dirin u reeke. |赤いのが好き。
Mon tire ze tun u. |そんなこと言うな。

この場合も、名詞節の記述詞形としてなら”ze”は省略可能である。つまり、下記の表現ができる。

Ref Arhemarara mirsomittera n u sevandoretra. |私はアルヘマーラに住んでいたのを思い出した。
Kun varef cokef ardira koaetra n. | その車は父が昨日買ったのだ。

名詞句生成に使う場合の”ze”は省略できないが、口語表現としては明白な要素の省略が可能であるため、下記の表現が可能である。下記の表現はインフォーマルな表現となる。

Dirin u reeke. |赤いのが好き。
Mon tire tun u. |そんなこと言うな。

人工言語の作り方の参考

作る手順として最も参考になると思ったSERIXのサイトを見つけたので、リンクを張っておく。

http://arxidia.another.jp/lanxante/serix.html

人工言語の作業場所Discordを作った

人工言語の作業するときに居座る用の場所作ってみた。良ければ使って~

Discordサーバーの招待リンク(押すと即座にサーバーに入ります!)

人工言語:計測と創作

背景

最近はそもそもこの話自体が下火なので、最早ただの回顧録だけども、一応書いておこうと思う。何年も前の話だが、一時期言語学的な整合性のない言語に対して、完成度が低いとか、不自然だとか言う風潮があった。その時に「計測のツールをそのまま創作に転用するな」という趣旨で発言したが、何を懸念しているのかが伝わらなかった。どうしたものかと思っていたところ、企業におけるノルマの話を引き合いに出すことで、多少なりともわかりやすくなると感じたので、書いておく。

問題意識

「計測のツールを援用して創作することで人工言語の姿が決まり、その結果として望みの言語の姿を得る」というスタイルには落とし穴があると考えている。具体的にはアルカの認知言語学的考察のような表を念頭に置いて、この表で整合性がとれていなければ、整合性がとれるように修正していく…… という流れにはある種の危うさがある。

なぜ危ういか

端的に言えば、 ある指標をノルマとすることで、指標の指標性自体が歪むから の一言に尽きる。 続きを読む

計測への恐怖とアルカの残滓

まえがき

きっかけはこの論考で、これに触発されて考えた。論考の中の

しかし、私が人工言語界隈に不信感を抱き始めたのはその頃からであった。セレニズム時代の界隈人工言語が人工世界を基盤としてアプリオリ性の高い言語を作る傾向にあったこと自体に批判の目が向けられたことが始まりだった。そして、人工言語を計るための形式主義的なものさしが界隈を挙げて推されたことが当時のFafsにとっては容認できなくなっていった。
(中略)
そしてそのあとに出てきたポストセレニズム以降の人工言語知識人や悠里界隈の人間が形式主義的なものさしに加速主義的に拘泥しているように見え、特にそういったものさしで自分の言語が計られ、何らかの判断が行われたことはFafsに強い反感を抱かせた。何故なら、形式主義のものさしで全てが解明されてしまったら、リパライン語がリパライン語である理由がなくなってしまうのではないかと思ったからだ。反感はそのじつ恐怖であった。リパライン語のアイデンティティ消失への恐怖だった。

という部分に対して考えたことを纏めておいたほうが良いと思う。論考の中で、

これには私の人工言語界隈史の理解のようなものが強く影響している。どのような界隈史の理解が正しいのかという議論はここではしないことにする。なぜなら、「正しい界隈史」と他者性の人工言語論に繋がる「Fafs F. Sashimiの界隈史の理解」は必ず別ものであるからだ。

と但書がされていることから、上記リンクの論考を下記では Fafs史観 と置くことにする、下記の論考もまたざすろん史観に過ぎないということは了承して貰いたい。

言語学と人工言語論の違いについて

Fafs史観だけでなく、Twitterでのやり取りも含めて考えたことだが、言語学と人工言語論は、似ているようで位置づけに大きな差があると思う。言語学はあくまで現実の言語を分析するための計測のツールだが、人工言語論は計測のツールと創作のツールが入り混じっている。

続きを読む

イジェール語辞書をZpDIC Onlineへ移行した

タイトルの通り移行した。
ZpDICのOTM-JSONがそのまま解釈できるように自分の辞書システムを直せば良いんだけど面倒だし、変なところで自前主義発揮してる時間はないなと思った。

  • サイト内検索

  • アーカイブ

  • タグリンク