鑑賞行為と創作性
- 2021年05月17日
- 雑記
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意外とオリジナル作品を作ることにこだわりを持つ人が論評や批評を下に見ていることがあって、作者の意図と分析がずれていることを持ってクソと断じることがあるが、自分はこれには同意できない。なぜなら、批評や論評というものにも、オリジナリティはあると考えているからである。
鑑賞という行為について
鑑賞という行為は、鑑賞者の中で作品を再組み立てする作業にこそ醍醐味があると思っていて、「物語のリバースエンジニアリング」に伴って、本来とは別の観点でパーツが切り出されることにはオリジナリティを見出すことができる。
作者がある観点に基づいてストーリーを組み立てたとしても、それに対する別の解釈というものは常に無矛盾に存在できるので、「作者の意図」と「作者の意図であろうとされる読み」と「作者と関係なく創作物から見い出される性質」はそれぞれ独立して存在し得る。このことは、国語の問題文には正解があるが、それは必ずしも本来の「作者の意図」とは一致しない(からと言って、問題が間違っているわけではない)ということに関係してくる。このあたりの区別がつかず、作品鑑賞には唯一つの正解があると思いこむことは、本人が想像しているであろう「正しい読み」を導くものとしての読解力志向とは裏腹に、現実には読解力を低める原因になると思う。
作者の意図がそのまま伝わるということは現実にはなく、たとえ脳を直結させて… というSF的解決法を試したところで、その信号の解釈が同一である保証がないので、自他の境界がある以上、原理的に解決し得ない。
こういったことに頓着せず、オリジナルの意図をオリジナルのままとして理解しようということにこだわりすぎると、作者の見解のみを正解とする神託主義になる。この考え方を突き詰めると、作品そのものの鑑賞は不要になり、制作秘話や作者インタビューのみが重要になってしまうので、作品に対して誠実に向き合っているとは言えない。一方で、あまりにも作品外部的な要素(あの時作者は奥さんとうまくいっていなくて等)ばかりを考慮する姿勢も、別の方向性で制作秘話や作者スキャンダルのみに注力することになるので、作品に対して真摯とは言えないと思う。
まとめ
作品鑑賞というのはリバースエンジニアリングのような行為で、自分の中で創作物を再構成する作業にこそ醍醐味があると考える。
リバースエンジニアリングというのは我ながらいい表現だと思っていて、パーツを勝手に付け足したり抜いたりしてはいけないけど、どう組み立てるのかを空想する自由はあるということだ。ここに創作性を認めないのであれば、オマージュや継承発展を「パクリ」としか評価できない状態に近づいてしまうと思う。
参考
背景情報や周辺情報に関する知識にばかり傾倒して、作品そのものを見ないことについての問題意識は同じだと思う。