Starlight Ensign

鑑賞行為と創作性

意外とオリジナル作品を作ることにこだわりを持つ人が論評や批評を下に見ていることがあって、作者の意図と分析がずれていることを持ってクソと断じることがあるが、自分はこれには同意できない。なぜなら、批評や論評というものにも、オリジナリティはあると考えているからである。

鑑賞という行為について

鑑賞という行為は、鑑賞者の中で作品を再組み立てする作業にこそ醍醐味があると思っていて、「物語のリバースエンジニアリング」に伴って、本来とは別の観点でパーツが切り出されることにはオリジナリティを見出すことができる。

作者がある観点に基づいてストーリーを組み立てたとしても、それに対する別の解釈というものは常に無矛盾に存在できるので、「作者の意図」と「作者の意図であろうとされる読み」と「作者と関係なく創作物から見い出される性質」はそれぞれ独立して存在し得る。このことは、国語の問題文には正解があるが、それは必ずしも本来の「作者の意図」とは一致しない(からと言って、問題が間違っているわけではない)ということに関係してくる。このあたりの区別がつかず、作品鑑賞には唯一つの正解があると思いこむことは、本人が想像しているであろう「正しい読み」を導くものとしての読解力志向とは裏腹に、現実には読解力を低める原因になると思う。

作者の意図がそのまま伝わるということは現実にはなく、たとえ脳を直結させて… というSF的解決法を試したところで、その信号の解釈が同一である保証がないので、自他の境界がある以上、原理的に解決し得ない。

こういったことに頓着せず、オリジナルの意図をオリジナルのままとして理解しようということにこだわりすぎると、作者の見解のみを正解とする神託主義になる。この考え方を突き詰めると、作品そのものの鑑賞は不要になり、制作秘話や作者インタビューのみが重要になってしまうので、作品に対して誠実に向き合っているとは言えない。一方で、あまりにも作品外部的な要素(あの時作者は奥さんとうまくいっていなくて等)ばかりを考慮する姿勢も、別の方向性で制作秘話や作者スキャンダルのみに注力することになるので、作品に対して真摯とは言えないと思う。

まとめ

作品鑑賞というのはリバースエンジニアリングのような行為で、自分の中で創作物を再構成する作業にこそ醍醐味があると考える。

リバースエンジニアリングというのは我ながらいい表現だと思っていて、パーツを勝手に付け足したり抜いたりしてはいけないけど、どう組み立てるのかを空想する自由はあるということだ。ここに創作性を認めないのであれば、オマージュや継承発展を「パクリ」としか評価できない状態に近づいてしまうと思う。

人工言語の作業場所Discordを作った

人工言語の作業するときに居座る用の場所作ってみた。良ければ使って~

Discordサーバーの招待リンク(押すと即座にサーバーに入ります!)

人工言語:計測と創作

背景

最近はそもそもこの話自体が下火なので、最早ただの回顧録だけども、一応書いておこうと思う。何年も前の話だが、一時期言語学的な整合性のない言語に対して、完成度が低いとか、不自然だとか言う風潮があった。その時に「計測のツールをそのまま創作に転用するな」という趣旨で発言したが、何を懸念しているのかが伝わらなかった。どうしたものかと思っていたところ、企業におけるノルマの話を引き合いに出すことで、多少なりともわかりやすくなると感じたので、書いておく。

問題意識

「計測のツールを援用して創作することで人工言語の姿が決まり、その結果として望みの言語の姿を得る」というスタイルには落とし穴があると考えている。具体的にはアルカの認知言語学的考察のような表を念頭に置いて、この表で整合性がとれていなければ、整合性がとれるように修正していく…… という流れにはある種の危うさがある。

なぜ危ういか

端的に言えば、 ある指標をノルマとすることで、指標の指標性自体が歪むから の一言に尽きる。 続きを読む

計測への恐怖とアルカの残滓

まえがき

きっかけはこの論考で、これに触発されて考えた。論考の中の

しかし、私が人工言語界隈に不信感を抱き始めたのはその頃からであった。セレニズム時代の界隈人工言語が人工世界を基盤としてアプリオリ性の高い言語を作る傾向にあったこと自体に批判の目が向けられたことが始まりだった。そして、人工言語を計るための形式主義的なものさしが界隈を挙げて推されたことが当時のFafsにとっては容認できなくなっていった。
(中略)
そしてそのあとに出てきたポストセレニズム以降の人工言語知識人や悠里界隈の人間が形式主義的なものさしに加速主義的に拘泥しているように見え、特にそういったものさしで自分の言語が計られ、何らかの判断が行われたことはFafsに強い反感を抱かせた。何故なら、形式主義のものさしで全てが解明されてしまったら、リパライン語がリパライン語である理由がなくなってしまうのではないかと思ったからだ。反感はそのじつ恐怖であった。リパライン語のアイデンティティ消失への恐怖だった。

という部分に対して考えたことを纏めておいたほうが良いと思う。論考の中で、

これには私の人工言語界隈史の理解のようなものが強く影響している。どのような界隈史の理解が正しいのかという議論はここではしないことにする。なぜなら、「正しい界隈史」と他者性の人工言語論に繋がる「Fafs F. Sashimiの界隈史の理解」は必ず別ものであるからだ。

と但書がされていることから、上記リンクの論考を下記では Fafs史観 と置くことにする、下記の論考もまたざすろん史観に過ぎないということは了承して貰いたい。

言語学と人工言語論の違いについて

Fafs史観だけでなく、Twitterでのやり取りも含めて考えたことだが、言語学と人工言語論は、似ているようで位置づけに大きな差があると思う。言語学はあくまで現実の言語を分析するための計測のツールだが、人工言語論は計測のツールと創作のツールが入り混じっている。

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UnityのHDRPでライトを消したのに画面が明るすぎるときの調整

環境光の設定項目は見当たらなかったので、カメラの絞りを調整する。数値を上げると画面が暗くなる。