Starlight Ensign

うつへの向き合い方

契機

自分は精神を病んでいた時期(うつ)があり、その時に自分の状態を分析した結果を、いまさらながらまとめておこうと思う。

相関関係の崩壊

うつになっていた時、自分の中で起こっていたことは因果関係の崩壊である。「エネルギーが不足してきたので空腹を感じる」「楽しいことをやったので気分が晴れる」「睡眠が必要なので眠くなる」などは、すべて意思と身体の状態間の相関関係が存在する。

うつの時、これらの連動は崩壊する。「何も食べていないのに腹が減ったように感じられない」「布団から起き上がれないが眠くない」「楽しいことをやりたいと思っても体が動かない」などの様に、精神と身体が分離したように感じられて、思ったとおりに身体は動かないし、身体の信号は精神に響かなくなる。

健常な人にとって、人間は「心と体」でできている。そして、この二つは連動しているものとされる。「一時的な体のだるさは一時的な気の迷いによるもの」であり、「明るい気持ちでいれば体も元気になるもの」であり、「体を動かせば心も晴れる」ものである。

しかし、心と体を結ぶもの(ここでは無意識と呼ぶ)が崩壊していると、上記は成り立たなくなる。身心の連動が崩壊している状態では、これらの連動は起きない。心身の持ち主がコントロール不可能な領域について、どうにかすることはできないため、このようなことを言われると無力感に苛まれることになる。

コントロール不可能領域への観念

「コントロール不可能領域をコントロールしようとする」と言うこと自体がうつの人が持ちがちな観念であることには触れておく必要がある。

自分と他人、客観と主観、事実と評価、これらの概念は前者はある程度コントロール可能だが後者はコントロール不可能である。しかし、うつの人は(原因なのか結果なのはさておき)どこまでがコントロール可能であり、どこからがコントロール不可能なのかの境界が混乱している。他人からの評価を直接コントロールしようとして失敗し、主観的な自己像をコントロールしようとして失敗する。

  1. コントロール不可能領域へのコントロール欲求:自らがコントロールできない要因に対しても、コントロールしなければいけないという強迫観念。
  2. 存在には許可が必要であるという認識:成績、愛情、権力、金などの何らかの指標が一定以上を満たしていなければ、存在を許可されないという認識が強い

なお、「客観はコントロール可能で、主観はコントロール不可能」と言うのは書き損じではない。一般的には逆に考えられがちのように思うが、コントロール可能なのは客観の方である。他者からどう見えるかという客観は操作可能である。操作不能なのは、他者がそれをどう評価するかである。また、自分が自分をどうとらえるかも、容易にはコントロールできない。体が強くなっても、子供のころの病弱な自己像を捨てられない人は多いし、過去に見捨てられた経験からその不安をぬぐえない人も多い。どれも、現在の状況には直接関係がないし、他者から見た場合の姿とも関係がない。自分自身が認識する自己像は容易には変更できないのである。

相談を受ける側の考えとして注意が必要なこと

上記の特徴を考えて、下記に該当する人は相談を受けたときに適切な回答ができない可能性が高い。端的な回答ではなく、丁寧に自分の考えの背景まで含めて説明しないと、状況を悪化させやすい。それが面倒であると思うなら、相談に乗らない方が良い。

  1. 責任が強い人:責任能力ではなく、責任感が強い人は注意が必要である。「結果がすべてであり、他責にしない」ということをモットーにしているタイプの人間は、相手にも他責にしないことを求めるという点においては、非常に他責的である。自らの他責性に目をつぶって、相手の他責性を責めがちであり、うつのように自責性が強い人間にはその点を見破られて心を閉ざされがちである。「お前の責任であると認めろ」は、本当に他責を嫌う人間の口から出る言葉として適切かどうか、今一度考えてほしい。人は思っているほど自分に厳しくなどできない。
  2. 弱肉強食志向が強い人:相談を受ける側になることはお勧めできない。根本的に、うつに陥るタイプと似たタイプであることが多い。親身になりすぎると、同じ状況に引きずり込まれかねないし、それを防ごうとすると相手を傷つけがちである。このタイプの人間は、たまたま心が折れずに成功したために、それを実力と認識して自己の存在感を構築することに成功している。そのことに無意識に気付いているために、うつの人間を前にすると「俺は弱いお前とは違う」と強く主張せずにはいられない。結果が運に左右されてしまうなら、自分の価値とは何だったのか…… この疑問から目を背けるためには、常に自分が強いということを認識し続けなければならないからだ。

なぜ「がんばれ」と言ってはいけないか

ここまでの話で、よく言われる「がんばれと言ってはいけない」が説明可能になる。

がんばれと言ってはいけないのは、端的には、がんばってもどうにもならないからである。表面的な心を入れ替えることは可能である。身体をケアすることも可能である。しかし、その間の連動を直接改善することはできない。改善する必要があることがわかっているにもかかわらず、コントロール不可能であるために改善できないことを指摘されたとき、人は無力感を覚える。無力感はコントロール感の低下をもたらし、余計に状況が悪化する。

がんばれと言うのは一種の命令である。評価基準も明示されず、ゴールもない。そもそも、「お前には期待しているからもっとがんばれ」と上司に言われて良い気持ちになる人は少ないことからも、この言葉の持つ根本的な問題は、健康な人であっても思い至る点があるはずだ。

言い方に注意が必要なこと

なぜ言ってはいけないか、と併せて例示する。共通して言えるのは、事実から離れた信念の提示や、楽観的な希望的観測は危険であるということである。信念の提示は信念の強要(この信念が持てればよくなると思うよ=この信念のない人間はダメだ)に繋がり、希望的観測は端的に事実ではないので信じるに値しないからである。

  1. 誰でもそのくらいは悩むことあるよ / 私もそれに悩んだことある:これはこの後の話の展開に注意が必要である。解消に実力を要するような解決策は提示してはならない。実力が存在のために必要であるという観念を強化するからである。そのような事実があり、現在はそのような事実はない、という事実の提示に留めた方が良い。
  2. きっと一時的なものだよ / 明けない夜はない:これは非常に危ない。いつかよくなるというのは信念であり、事実ではない。もし一時的でなかったらどうするのか、あなたはその責任が取れるのか?だいたい、沈まぬ太陽も無いではないか。楽観的に構えることは、平時には良い選択肢であっても、最悪の状況では最悪の選択肢のうちの一つである。
  3. 誰かが見ていてくれる:良くない。誰かとは誰?なぜ「私は見ている」とは言わないのか。すべての人間がこれを自分に言うということは、全員が自分以外の誰かに託している状態である。また、これを言う人間は「誰もそんなに気にしていないって」などと言ったことは無いか?誰もそんなにあなたのことを気に留めないのに、肝心な時だけは見てくれていると信じるのは、どういう理屈で成立するのか不明である。

では何と言えばいいのか

これは万人に当てはまるものではないと思うが、マシな言い回しは考えることができる。

私は貴方ががんばれると信じている

これは事実の提示であるため、単にがんばれと言うよりも攻撃性が低くなる。健康な人は、この言葉の「何も言っていない性」が気になるかもしれないが、不要なことを言うことこそが、最も求められていることである。2で書いた「存在には許可が必要である」という観念を解除するには、評価や意味がないことが重要で、無意味なことを、無意味である自分などと言う存在に対して行ってくれるということことそが、この観念の解除に対して重要である。

結論:どう向き合うべきか

本人にとって:責任感なんていらない。責任感とは、責任から最も遠い概念である。自分ができることを、求められる範囲で、相応の権限に応じて行うことこそが責任である。責任を負っていないことに対しても責任感を見せるのは、無用な苦しみを背負うだけである。責任感を他人に求める人は、それこそ責任感があるとは言えないだろう。責任範囲をはっきり分けることは悪ではない。互いが無用な苦しみを背負わないように、物事の主人を決めることは悪ではない。責任感は自分を縛る鎖であり、責任感がないと責める人間の方にこそ問題がある。偉く見える人間は偉くない。強そうに見える人間は強くない。彼らはそのように見せることによって、弱さが露呈することを恐れている臆病者である。弱さと向き合うだけの実力もなく、それができる胆力もない。そして、そのことに気づく知性もない。そのような人間が決めた尺度で自分を測っても良いことは無い。弱さに直面して、それを正面から直視できる人間には確かな強さがある。それは誰にも気づかれないかもしれないし、誰にも評価されないかもしれないが、それで問題はない。どうしようもない人間の内面を予測してコントロールすることは不可能なので、理由を考えることはやめて、事実とだけ向き合えると良いと思う。

相談を受ける側として:たわいもない雑談をしよう。無価値なこと、無意味なことを一緒にやろう。相手には価値が無くても、それで私が離れるわけではないということを態度で示そう。解決しようとして自分の考えを話すのはあまりお勧めできない。その場合は、あくまで事実の提示に留め、信念や評価を相手にも受け入れるように強要するのは避ける。

ヴァリーゼル帝国軍の構成

ヴァリーゼル帝国軍は深宇宙軍、星系軍、降下軍の3軍構成である。

帝国軍は米軍のようなタスクフォース構成を取らず、統合軍の考え方が薄い。このために、セクショナリズムによる弊害があると言われている。

深宇宙軍

遠征を主任務としたブルーウォーターネイビーである。戦力を遠隔地に速やかに投射することを目的とする。また、敵によって侵略された星系から敵を叩き出すことも任務に含まれる。このため、艦隊は独自にワープ可能となるように整備される。

最も歴史が深い軍であり、元はイジェール王国宇宙軍であった。現在の帝国軍の基礎となった軍である。従って、彼らは非常に誇り高く、降下軍とはそりが合わない面がある。軌道上での決戦こそが戦争の潮流を決めるのであり、その後の降下作戦は無粋で過剰であると考えている。

進深宇宙軍から現在の名称に改称された。

星系軍

星系防衛を主任務とし、沿岸警備隊や国境軍としての任務を兼ね備えた軍である。主に軌道圏内の防衛を主任務としており、各王国軍を大気圏内軍として隷下の軍とする。

軌道軍、星系防衛軍、星系軍と改称されている。

王国軍

各王国に帰属する大気圏内軍であり、帝国軍としては星系軍の一部とされている。編制及び指揮権は各王国に帰属しているが、帝国は王国に命令を下すことができるため、非常時は帝国の傘下として行動することとなる。基本的に大気圏を脱出する装備は持たず、大気圏内から軌道上を攻撃する兵器までを装備とする。

一般的に陸海空軍で構成されているが、国境が地上に存在しないため、装備は現代と比べると非常に貧弱である。

降下軍

最も歴史の浅い軍であり、軌道上から大気圏内へ降下して敵地を占領することが主任務の軍である。軌道上の敵軍排除は深宇宙軍の任務であるため、降下軍は降下母艦を基本とした編制となっている。装備と人員を迅速に降下させる能力と、軌道上からの対地上爆撃能力を持つかわりに、対艦戦闘能力は殆ど持たない。

もともと帝国軍は軌道上を封鎖すれば地上を制圧する必要はないという考えであったが、軌道封鎖ドクトリンに対抗するために、近年になって降下能力を増強し始めた。

降下先の惑星によって大気組成や重力が異なることから、装備する車両や航空機には特異な性能が求められる。単純の核装備の能力は現地の大気圏内軍に確実に劣るため、勇敢かつ知的な精鋭が集うエリートであるという自負がある。このため、同じく誇り高い深宇宙軍とはライバル関係にある。

用語

軌道封鎖ドクトリン

新陽が採用した作戦。装備を高いデブリ耐性及び掃海能力を持つ艦艇で固め、自らケスラーシンドロームを引き起こして軌道上に他国の軍艦が侵入できなくする作戦のこと。ほとんどの国家は宇宙から地上を殲滅できるだけの戦力を持っているため他国では注目されていなかった戦闘手法だが、侵略国が資源や領土が健全な状態で手に入ることを望む限り、有効な作戦であることが明らかとなった。

ある意味自らの領土を人質とすることで交渉力を上げる手法であり、他国はこれに対する対処を求められる形とはなったものの、追随する国はない。

東京と大阪の生活で感じたコミュニケーションスタイルの違い

何年か大阪に住んでいて、結構カルチャーショックがあった。コミュニケーションスタイルの違いが大きいと思ったので、ここにメモを残しておこうと思う。

  • 私自身は関東人なので、大阪人の考え方は推測で書いている。
  • 業務が絡んだシビアな場面などでは地域差による影響よりも利害関係の方が強い影響因子となるので、下記の話は成り立たなくなりがちだと思う。どうでも良い会話の時ほど下記の影響がある。

言及と言う行為の重さ

わかりきったことをわざわざ言うことに対しての印象に大きな差がある。大阪ではフリと捉えられる事が多いが、東京では誤魔化しとして捉えられる事が多い。

大阪における「いや〜、さっきまでここにあったんやけどな〜」と、東京における「さっきまではここにあったんですけどね~」は捉えられ方が著しく異なる。

大阪においては、言及するという行為は無標である。わかりきったことを述べたとしても、それ自体に含みはない。従って、上記の発言に殊更に責任回避のニュアンスは生まれない。しかし、言及するという行為が有標である東京では、これをわざわざ口に出すという事は責任回避のニュアンスが強くなる。

勿論、大阪の場合でも責任回避のニュアンスである可能性はあるが、「勝手にどっか行ったみたいなこと言うなや」と返しても、直ちに小競り合いとみなされる可能性が低いので、一見揉めそうに見えても、意外と会話を重ねることが可能である。ネタ振りである可能性を常に持ち続けることにより「半分ネタ / 半分は本気」の姿勢を示し続けて交渉が可能になる。最終的に互いが満足できる結果になった場合は、事後的に「アレはフリだったよな!」という解釈を付け加えることができる。

東京では言及するという行為自体が有標で重いので、上記の発言は責任回避のために卑しいことを言っているという印象になる。そこに対して「勝手にどこかに行ったみたいなことを言わないでください」と追及すると、敵対的ニュアンスを前面に押し出すことになり、即交渉が決裂してコミュニケーションが終了する可能性が高い。周囲の人間も「確かに責任回避的でどうかと思うけど、わざわざそんなに言ってまで批難するものか?どういう神経しているんだ」となりがちなので、基本的に嫌味やフリに遭遇した場合は、笑ってごまかしておくか、キレて戦うかの2択になりがちである。

まとめると、東京ではフリの文化が無いので解釈の一意性を求める傾向にあり、大阪では可能な「どちらともとれる言葉の意味を、互いにとって妥協可能な解釈に確定させていく作業」は成り立たず、曖昧な表現が出るたびに、確認するか誤魔化しておくかの二択に押し込まれる。

この価値観においては、解釈の一意性が成り立つ場合というのは議論が発生し得ない場合なので、コミュニケーションが存在しない状態こそが最高の状態ということになる。

ありがちな失敗パターン

東京の人が大阪に行ったときにありがちな失敗は「明らかにツッコミ待ちな状況が発生したのに、何も言わない」だろう。

大阪の人が東京に行ったときにありがちな失敗は「ツッコミを期待して発言したが誰にも拾われず、すべる」だろう。実のところ、面白くないという点以上に、不適切な発言をする信用できないやつとして評価を下げるリスクが大きいことの方が問題かもしれない。

対処法

東京の人が大阪に行ったときは、とにかくコミュニケーションを取り続けることを諦めないことが重要である。ツッコミできなかったときは、素直にその旨自体をネタにした方が良い。「オチないんかい」などの発言は強制的に第三者がオチをつけて完全に失敗することを回避してくれているので、その発言者に対して攻撃的な態度を取らない方が良い。すべっても何も言われなくなった場合は、敵対的ではなくなったのではなく、完全に信頼を失ってどうでも良くなった場合なので、そこを目指してはいけない。

大阪の人が東京に行ったときは、下手に東京弁に翻訳して喋らない方が良いと思う。聞く側には大阪弁で話されている限り、「大阪のコミュニケーションスタイルを採用しており、東京のスタイルとは異なる」というフィルタがかかる。これを利用しない手はない。東京人ならわかると思うが「ちゃうねん」は問題なく受け入れられても、「それは違いますよ」と言われると、かなり攻撃的に感じるので、そのままにしておいた方が良い。東京人がツッコミを入れないのは面白くはないかもしれないが、敵対心の現れではないので、追及の仕方は注意が必要。

略語の生成方法と発音

本項目では、主要な略語の生成方法を説明する。

頭文字による方法

最も一般的でわかりやすい方法である。単に構成要素の各単語の頭文字を取り、大文字で表記すれば良い。

品詞を明示する語尾(-inなど)や接続のための文字(-o-など)は残す傾向にあるが、場合による。何を頭文字とみなすかで表記の揺れにつながる。頭文字はできる限り3文字になるよう調整される傾向にある。

発音は構成要素に母音がある場合を除いて、間に”e”を挟んだものになる。4文字以上になる場合は、適宜eが省略される。

  • Avvadagor > AVG /Aveg/
  • Azmad’agom fomo-dansenin > AD’ FoDn /Ad’ fOdin/
  • Venu fadean mozeenin > VFM /vEfem/
  • Fenzenvansas > FZV /fEzev/
  • Fenzenvansas nadun > FZVN /fEzven/

母音字削除による方法

表記欄の長さの都合によって、その場限りの略語として生成されやすい。構成文字から頭文字を除く母音を取り去り、”.”を末尾につけることで生成される。

  • Bardesk > Brdsk.
  • Kaunan Deanin > Knn. Dnn.
  • Aume Sedarin > Am. Sdrn.

その他、慣用表記

これらの他、上記の規則にとらわれない場合もある。

  • Aumegaunangarme > ageg /Ageg/ 発音がそのまま単語表記に反映された例。

不思議の国のアリス 第一章 うさぎの穴をまっさかさま

Erisis Tator Fendamaven 1s su “Ace Askas Onidi”

Erisef tarkades ain, ze s’enomas benga Erisin sazin ra fodetra u, ta ze mongu sore u. S’af sazis bogau onire 1o-2n dim suf mon edau ta tiresku muze. “Sudu sevore?” Erisef medaret “Boga zef sien eda ta tiresku muze n du.”

Su keri, s’af mentra medaretra (murtan sorin. Nati icen ef s’au kuzaetra urgun ta narikan ain), ze ferfigasedis vamef nesomin ab ze mirakiref ueskan. Tucra, aska s’aren zes ea fankin dore n ef mirkodet denin gezan.

Su diman ef sien murin GUGAN dore. Diman s’af medare suu, askaf tire “Searan! Searan! Ref iebiasuin darton!” (medare dafin fadunin, suf mousden aidarin dim tucra suf sien usuden gugan). Su ab askaf ZIKIKROOMU AZMAGIRESKHUR PAIKE FEDIN, keri suu mare, keri suf miruiee, keri Erisef bibado-sevandoret, s’af mon marar, aska zef azmagiresku hiretra n u, ira zef zikikroomu suhur paike n u. Rak Erisef sgezgieu cegire, keri askau sanudi s’aget, keri s’af fendet suu zera suf oni faraksokis siirin ni idoet zeken in ra.

解説

  • Erisef tarkades ain, ze s’enomas benga Erisin sazin ra fodetra u, ta ze mongu sore u. :
    • この文は動詞句である tarkades ain を主語の次に移動させた、倒置文である。
    • Eris: アリスのこと。外来語の転写規則はこちらを参照。
    • ze s’enomas … u, ta ze mongu sore u. : 目的語2つは並列関係にある。日本語と異なり、ta で連結される名詞句は後置詞を伴う。
  • “Sudu sevore?” : 「それでなにをやるの?」の意。sevore は「何をする」という意味の疑問動詞。
  • Su keri, s’af … : kere は等位接続詞なので、文頭に置けない。代名詞 su で前の文を受ける必要がある。
  • ze ferfigasedis vamef nesomin … : vam は vame の動名詞。ferfigasedi は vame に取って対格となるため、動名詞に対して属格を取る。
  • Su diman ef sien murin … : 否定記述詞の sien は前置する。これに限らず、イジェール語では否定の記述詞は前置する。
  • Su diman ef : この diman は接続詞ではなく、記述詞である。diman の後に後置詞が来ていることから、この句が記述詞を含む名詞句であると判断できる。
  • sien murin GUGAN dore. : 否定文における「とても」は gugan を用いる。肯定文の場合は ain。
  • Diman s’af … : diman は従属接続詞なので、文頭におくことができる。
  • bibado-sevandoret : bibadae + sevandore の合成語。なお、自動詞化する際は後続動詞にだけmir- がつき、 bibado-mirsevandoret となる。

文・節・句

イジェール語において文とは、ある物事や性質を記述するための、動詞を中心としたひとかたまりのことである。統語的には、読点や疑問点などの終止符号で区切られた単語群のことを指す。

伝統的にイジェール語においては文の本質とは動詞であると見なされており、あらゆる要素は動詞を修飾する要素であると見なされている。動詞と動詞を修飾する記述詞をまとめて述語と呼び、文の基本要素であるとする。このことから、動詞を含む文のみを完全文と呼び、動詞が省略された文のことを不完全文と呼ぶ。

より現代的な解釈としては、文の最小構成要素は単語である。”Sefomef tire?”「誰が言ったの?」に対して、名詞単独で構成される”Ref.”「俺が(言った)。」は最小の文として成立する。同様に、”Naraf ardira sevore?”「あなた昨日何してたの?」に対しての、動詞単独で構成される”Mirnarietra.”「寝てた。」は文として成立する。文脈によって記述詞も単独で返答になり得ることから、あらゆる単語が文脈によっては文として成立する。

節とは、伝統的には句の構成要素に文を含むもののことである。しかし、文の項で触れたように、イジェール語ではあらゆる単語が文を構成できるため、これだけでは説明としては不十分である。現代では、節には修飾節と名詞節があると解釈されている。

修飾節は完全文 (i)nで構成されるものであり、最小構成要素は動詞 (i)nである。”… mirdeivetra n”「生きている…」、”… reu deve n”「私を好きな…」、”… renkeu koe n”「リンゴを食べる…」などが該当する。修飾節は節全体として記述詞と同じ働きをする。

名詞節の構成は、先行詞 修飾節である。”Ze dirin”「赤いこと」の様に通常の記述詞を利用するものと、”Ze mirdeivetra n”「生きていること」、”Fom (zef) reu deive n”「私を好きな人」、”fadis renkeu koe n”「りんごを食べる場所」のように前述の修飾節を記述詞として用いたものが含まれる。この時、ze は先行詞の代わりになることができ、関係節の表に従って格変化し、修飾節内の文における先行詞の格を表示する。

先行詞は省略できるので、実質的には記述詞がそのまま名詞に転用されたように見える場合がある。”Ref dirin u reeke.”「赤いのが好きだ。」の様な文章を作ることができる。

長い修飾節で修飾することもできる。”Ze ardira renkeu koe n”「昨日リンゴを食べたこと」、”Ze ref 2-iri-behra varu guvancoskittera n”「私が2年前に車を買い替えたこと」などが挙げられる。

句とは、単語相当の働きをする複数語からなる単一のかたまりのことである。句の最小構成要素は被修飾語+修飾語の2単語である。”fom deivin”「生者」、”gere merin”「土の色」、”akser moverian”「無意味な争い」などが最小の句となる。修飾語は修飾節でも良いため、”fom [mirdeivetra n]”「生きている人」なども名詞句となる。

イジェール語では英語と異なり主語(主格)や目的語(対格、与格)を自由に省略可能であるため、英語における句が節に相当する構造で表される場合がある。

英語 イジェール語 区分
to meet him ze (ref) s’au rume n 名詞節
place to meet him fadis (zera) (ref) s’au rume n 名詞+修飾節
a man who loves you orka (zef) narau deve n 名詞+修飾節

文法の変更について

イジェール語の文法を久々に改定することにした。契機は二つあり、ひとつは属格の意味があいまいであること、もうひとつは関係節の構造にしっくり来ていなかったことがある。

イジェール語には二つの属格があるが、特に記述属格については意味が曖昧であった。記述属格は名詞の記述詞形と同じ形となるが、記述詞はある状態に関連するということを意味する単語であるため、意味はかなりあいまいになる。例えば dirin|赤い、akserin|戦わされる は一般的な記述詞だが、これらはそれぞれ dirin|赤の、akserin|戦いの といった名詞の属格形と同形である。このため、s’o dirin|赤い靴、def dirin|赤の広場、fom akserin|戦わされる人、zik akserin|戦いの時 などがそれぞれ属格と記述詞のどちらを用いているのかは文脈によって判断されることになる。このことは、 “fom akserin” が「戦いの人」と「戦わされる人」の区別が(形態上は)つかなくなることを意味する。akserin が akser に対してどのような関係であるのかは、機械的には定まらないということである。

以上の分析からすると、そもそも格として記述属格というものを認める必要はなく、これは記述詞派生接語であると見た方が良いように思う。日本語の「の」との対比で所有属格と記述属格を定めていたが、イジェール語における属格は所有属格のみで、所謂連体修飾的な関係は全て記述詞で行うこととする。

ここまでの変更は、単に属格と記述詞の区分けの変更であって、構文上は大きな変更ではない。これを節や句による修飾に拡張すると、現行の文法から大きく変わる部分が現れる。

関係節:名詞節の記述詞形

従来、関係節として説明されていた構文は、名詞節の記述詞形として解釈されることとなる。関係代名詞だったものは、今後は名詞節に対して先行詞の格関係を表示するマーカーという省略可能な要素として扱われる。

従来の説明では、”zik zera 文 ra” が標準的な「~した時」を指す表現だった。ここで、”ze 文” で「~すること」という名詞句を生成できることを考えると、”zik 記述詞” 相当の表現として、名詞句の記述詞形として “zik ze 文 n” でも成立することになる。

Ref zik ze ref bei dore n u sevandore uvan. |私は子供の時の事をよく思い出す。
Ref zik zera ref bei dore n u sevandore uvan. |私は子供だった時の事をよく思い出す。
Ref zik ref bei dore n sevandore uvan. |私は私が子供の時をよく思い出す。
Ref zik bein u sevandore uvan. |私は子供の時をよく思い出す。

3つ目の例は、今回の改定で可能になった表現である。文である “ref bei dore”は後接した “n” によって”ref bei dore n”という名詞節の記述詞形となっている。”zik” の名詞節内での格関係を明示したい場合にのみ、”zera” を標示すれば良い。

「私は子供だ」と「時」の何らかの関係が記述詞形とすることによって結び付けられており、ここでは文脈から最も妥当な関係が選択されていると考えることができる。このことは、単純に記述詞派生として bei「子供」と zik「時」を接続させても非文とならない……時が子供っぽい、時が子持ちである、時が子供の所有物である、などの可能性がある中から、私が子供であったその時、という意味が選択されるのは文脈による作用である……ことからも妥当であると言える。

名詞節:名詞節の名詞形

「~すること」のような名詞節を名詞として使用する場合は従来通り “ze” から始まる節とする。また、”ze” は名詞節だけでなく名詞句を生成することにも使うよう、意味を拡張する。

Ref ze Arhemarara mirsomittera u sevandoretra. |私はアルヘマーラに住んでいたことを思い出した。
Kun varef ze cokef ardira koaetra. | その車は父が昨日買ったものだ。
Ze dirin u reeke. |赤いのが好き。
Mon tire ze tun u. |そんなこと言うな。

この場合も、名詞節の記述詞形としてなら”ze”は省略可能である。つまり、下記の表現ができる。

Ref Arhemarara mirsomittera n u sevandoretra. |私はアルヘマーラに住んでいたのを思い出した。
Kun varef cokef ardira koaetra n. | その車は父が昨日買ったのだ。

名詞句生成に使う場合の”ze”は省略できないが、口語表現としては明白な要素の省略が可能であるため、下記の表現が可能である。下記の表現はインフォーマルな表現となる。

Dirin u reeke. |赤いのが好き。
Mon tire tun u. |そんなこと言うな。